「偽善者だ!」と言う人へ「義務教育受けてる時点であんたも偽善者だ」と言いたい

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あなたは善い行いをしている人を偽善者だとおもうだろうか?
最近お知り合いのブロガーさん「masayaさん」が「偽善者と言われても善い行いをしよう」と言う記事を出された。
淡々と善い行いをしていくことに僕は賛成だ。
一方、善い行いに対して「あいつは偽善者だ、偽物だ」と指差す人もいる。
善い行いをする人が咎められる社会は生きにくくはないだろうか?
 
そもそも善行なんていうものはなんの実態のないバーチャルな存在だ。
善行というものに姿形があるだろうか?
だれか「あそこに善行がいる!」と指差して言えるだろうか?
だれもつかめない実態のないものに対して気持ちが囚われてしまうのはナンセンスだ。
 
そうだ。

 

善い行いがかっこ悪いとか、裏があるとか、実態のないものに対して批判を向けるのは馬鹿げてる。
自分の行動を偽善的であったと後ろめたく思うのも同様だ。
 
善行ということは作られたもの。
作られたものにたいして本物か偽物かなんてただのファンタジーでしかないのだ。
この記事はそれを伝えたくて書いた。
 
では、それについて詳しく述べていこう。
 

善行は相対的

 
そもそも善い行いとはどういうものか?
その実態は?その姿は?
 
善行とは非常に曖昧な概念だ。
これという絶対的なものはない。
親が子を助けたり育てたりする行為は一般的に善い行いとされる。
 
だがこれも行動だけ切り取ってみればただの動物的本能だ。
人間がその存在を残していくための摂理の一環にすぎない。
 
この行動自体には善いも悪いもない。
だが見た者の印象としては善い行いに映って見える。
 
カンガルーの親が子供を大切そうにポケットに入れていることや、鹿の親が子供が立つのを見守っている姿を見て僕らは「親だからね」と納得する。
それは自然で微笑ましい、善いことで納得のいくものだ。
先ほどの例はこれらと全く同じことだ。
 
誰が誰に何をしたという事実は変化している。
だが親が子を助けたという主語と述語の流れは一致している。
僕らはこの主語と述語の流れの中あるパターンに沿った行為を善行として記憶してるんだ。
 
ちょっと立ち止まって考えていただきたい。
先ほどのような善行は自然発生するものだろうか?
確かに親が子を助けることは自然の摂理の中で自然に発生する。
でもそれが善行であると決めたのは人の頭だ。
 
自然にとっては当たり前のことを、わざわざ善行として区別したのだ。
 
今や善行は数多く作りだされた。
同類のものの集まりを概念という。
善行という概念は大量生産されて今や巨大な要塞と化した。
 
善行というのはみんなが頭で作った大きな概念だ。
遠くから見たら大きな塊だが、近くで見たら小さな要素の集まりが概念だ。
いわば善行とは海の中を群がって進む魚群に酷似している。
 
魚群が1秒ごとに形を変えるように、善行も1秒ごとに形を変える。
捉えようのないものだから、捉え方によって見方も変わる。
 
誰かが善行について語っている時、僕はこう思う。
「同じモノを見ている前提で言われてもな……」
 
善行とは絶対的な姿はない。
あくまでも相対的なものなんだ。
 

様々な要素によって作られる善行

 
善行が人によって作られた実体のないものだと言うことを述べた。
実態がないということは、姿が変わるということだ。
善は時間・場所・文化によって様々に変化する。
 
例えば日本で善とされていることは他の国ではちがう。
度々ネットで揶揄される残業問題。
日本では未だに「無償奉仕」が賛美される場所もあることは確かだ。
海外でも一部そういったところはあるかもしれない。
でも僕が今まであった人で日本の「サービス残業」を賞賛する外国人はいなかった。
労働は必ず対価が伴うものだから、残業をする場合は必ず対価をもらうことが彼らにとって善いことなのだ。
これも何を善しとするか違うひとつの形だ。
 
近年はネットが普及して誰しもが自分の意見を発信できるようになっている。
価値観も様々だ。
アイデンティティーもどんどん分裂し始めている。
上記の例ほど人間の属性に違いがなくとも、価値観が食い違う状況もありえるだろう。
 
それなのになぜ僕らは「善行」についてまるで知っているかのように議論するんだろう?
さっきから言っているように「善行」には実態もないし変化するメタモン的存在だ。
そんなメタモンにたいしてあたかも知っているかのように話をするのは、何か理由があるはずだ。
 
その答えは、僕らが当然のように受けてきた「教育」にある。
まるで「空気」のように吸い続けてきた教育が、善行を空想からまるで実態をもっているかのようにさせた。
 

生まれた時に「利用規約にチェック」をつけた

 
ネット上でサービスを利用する場合、あらかじめ利用規約を読んでチェックしてもらうことが習慣になっている。
これは高い倫理性をもって利用するユーザーにはあまり関係のない情報だ。
要は常軌を逸した利用の仕方をするユーザーを言語的に特定して、もし現れた時に罰則措置をとるための制度だ。
サービスを使う上でこれは知っていることが前提になっている。
この「利用規約にチェック」することとよく似ている存在をあなたは知っているだろうか?
 
それは憲法と法律だ。
日本においてこの二つに違反したものは裁かれるようになっている(憲法には罰則規定はないが、憲法に基づく法律で裁かれる)。
上記と同じく高い倫理性をもって生きている人間にはあまり関係のない情報だ。
罪を犯した時点で「知らなかった」では済まされない。
いわば僕らは日本に生まれた時点で日本の「利用規約にチェック」をつけているのだ。
 
なにを善行とするかは生まれた時はまだ知らない。
だが生まれた時点からすでになにが善行か教えたり縛る準備はもう整っているのだ。
 

何が善行かスラスラ言える人は教育による洗脳を受けた人だ

 
教育により善行は幼いころから教えられる。
もし人が自分の頭で考えられるならば、「何が善い行いなのか?」という質問にたいしてこう答えるだろう。
「そんなのどういう状況でどんな選択肢を迫られているのか、その場で判断しないとわからない」
しかし、多くの日本人は「人に迷惑をかけない」とかとりあえず色々と列挙できるはずだ。
これは教育が善行を相対的なものではなく絶対的なものとしてあつかってきた証拠だ。
 
ところであなたは堀江貴文氏著『すべての教育は「洗脳」である〜21世紀の脱・学校論〜』はもう読んだだろうか?
自分が偽善者かどうかスッキリ心が晴れることが書いてある。
まだ読んでなければ是非これを機会に読んでほしい。
 
"さらには「道徳」の授業だ。「家族は仲良くしなければいけません」「他人に迷惑をかけてはいけません」。そんな道徳的価値観を、誰もが学校教育を通じて学ばされる。これも元をたどれば、戦前の学校にあった「修身」という科目の名残である。お涙頂戴の物語や、予定調和の議論で子どもの道徳精神を育もうだなんて、おせっかいを通り越してバカバカしいの一言につきる。それを教える教師も、教わる生徒も、ほとんどは「くだらない」と思っているはずだ。”
 
僕は上記の文章をこう解釈した。
道徳の授業の特性は「学校でわざわざ教えなくてもわかってるやつはわかってる」んだと。
高い倫理観をもった人にとってはやはり道徳は自分にとって関係ない情報なんだ。
 
「幼いころから教えるものだから重要なことなんじゃないの?」という反論もあるだろう。
しかしそれは違う。
下記の引用は日本の教育の変化について言及した箇所だ。
 
”この時期の日本が求めた「国民」とは、要は「軍人」だ。すべての学校は、天皇を大元帥と仰ぎ、お国のため死ぬまで戦い続ける軍人をつくるための「軍人学校」として再整備された。そこで、明治天皇のお言葉である「教育勅語」が、国民の絶対的な指針として祭り上げられるようになった。教育勅語は、子どもに「孝行」や「友愛」など、「十二の徳目」を教え込む内容になっている。大人たちは、これらの徳目を備えた「立派な日本人」になることがあなたたちの務めである、と子どもを指導した。つまり、「学校」という工場における、「日本人」という製品の品質チェックの基準が、これによってはっきりしたのだ。”
 
教育が普遍的な善行を育むものならば、時代によって方針は変わらないはずだ。
しかし現実的に教育はその時代に国家に必要な人材を育てる方針で行われる。
だから何が善いか悪いかの教育も自在に変化していくのだ。
 
自立した人間は何が善いか自分で考える。
盲目的に教育されたことを善いとする考えはまさに被洗脳者そのものだ。
 

教育に盲目なのは喫煙と似ている

 
僕らは空気と同じくらい教育を吸い込んできた。
だからといって疑う心ももたないのは危険だ。
人を「偽善者だ!」という人は副流煙を吹きかけてくる喫煙者に似ている。
自己正当化と同調圧力という特徴がよく似ている。
 
あなたはタバコをすって健康被害にあっている人をどうおもうだろうか?
喫煙者は自分にとってタバコは必要なものだと思ってる。
健康被害のリスクも分かった上だ。
いわば割り切りの自己正当化だ。
 
では国の教育を信じていきて、報われなかったひとはどうだろう?
教育を信じるひとは今までの学びがじぶんにとって大切なものだと思っている。
だがそのリスクに関しては無頓着なひとがおおい。
「お国は自分を見捨てられた!」と言っても後の祭りだ。
自己正当化と後戻りできない点は同じだが、自覚できないぶんやっかいだ。
 
どんな人生を選択をしたかは自分次第。
だれも強要などしていない。
 
だから僕らは自分の頭で考えて歩いていかないといけない。
 
気づいたひとは喫煙ルームを出ていく。
出ていきたくてもでられないひともいる。
空気のように吸ってきたものはなかなか抜けないのだ。
喫煙スペースは狭い中で複数人タバコを吸う。
自分も吸ってるし他の人も吸ってるからやめるには大きな意思がいる。
 
たまにおかしいと思うときもあるらしい。
でもすぐまた元の考えにもどってしまう。
「お前禁煙したんじゃないのかよ」
「いやーやっぱりやめられなかったよ。俺意思弱いなー」
さながらこんなやりとりのようだ。
 
タバコを吸っている人は自分のことを「高額納税者だ!」と言う。
喫煙ルームの外の人は自分より納税してなくて悪い人というわけだ。
教育に盲目なひとは自分のことを「真面目な人間だ!」と言う。
教育で得たものより自分のあたまで考える人は悪い人というわけだ。
 
だれかから偽善者だと揶揄される状況。
それは「なんでお前タバコ吸わないんだよ!」と言われるようなもんだ。
これが同調圧力だ。
 
そんな言葉に応じる必要はない。
彼らにとっても善行は点火して5分で消える煙と同じなのだ。
なんでもないものを掲げて勝手に裁かれる必要は微塵もない。
 

まとめ

 
ここまで「善行」に実態がないことを詳細に説いた。
善行に実態がなければそれが本物か偽物か議論自体が成り立たない。
だから偽善者というものも実際存在しない。
日本的な同調圧力からくる言葉だとも考えられる。
 
だから僕らは自分で考えた善いことを淡々としていくしかない。
あくまでも自分のあたまで考えて行動していこう。
 
それでは、今日はここまでです。